されど われらが日々

柴田翔の、「されど われらが日々」読みました。図書館の書庫に眠ってるような、1970年代に書かれた本。

ドラマ「若者たち」で、満島ひかりがセリフを引用してたのがかっこよくて、原作読んでみたのでした。

「あなたは私の青春でした。どんなに苦しくとざされた日々であっても、あなたが私の青春でした。私が今あなたを離れて行くのは、他の何のためでもない、ただあなたと会うためなのです。」

 

この本、読んでみて思ったことは、柴田翔というひとは、もしこの世に女心というものがあるのなら、びっくりするほどそれが分かる人なのだなあと思った。

それから、人間にはそれぞれ思考というものがあって、同じ時間を共有していても、決してそれが同じにはならないこととか、他者を理解していると思い込むことがどれほど傲慢なことかとか、そういうことを思った。

 

「信じることは美しいと人は言う。だけど、ぼくには、信じるということについては、いつも、どこか醜さがあるとしか思えなかった、ぼくは、党員たちの華やかに論じたてる片隅で、必死になって、これはまだ俺にとっては判り切ったことではない、と 思い続けていたんだよ。」

「それは、そうした事実以上には説明できないんだ、それ以上説明しようとすると、嘘になってしまうんだ、そうした体験っていうのは。」

 

解釈は、嘘になるのかな。確かに、思考は単純じゃないし、言葉は足りないけど。だけど、逆の考えもあって、世の中に、事実なんてものはない。あるのは、それぞれの解釈だけだ、っていう。それはそれで、合ってる気がする。

 

「思い出は 狩の角笛 風の中で 声は死にゆく」

 

「人間にとって、過去はかけがえのないものです。それを否定することは、その中から生まれ育ってきた現在の自分の殆ど全てを否定してしまうことと思えます。けれども、人間には、それでもなお、過去を否定しなければならない時がある。そうしなければ、未来を失ってしまうことがあるとは、お考えになりませんか。」

「私が求めていたのはあなたなのに、私が求めることができたのはあなたの身体なのです、私が抱きしめたのはあなたの身体なのです。しかも、心はそんなに離れていながら、私はあなたの愛撫の一つ一つ、あなたの身動きの一つ一つに、いきをはずまし、身をそらし、応えてしまったのです。ー それは哀しいことでした。心とは無関係のところで、そうしたことが起き、終って行くということは、哀しいことでした。涙が頬をつたわるのがわかりました。」

 

この感覚、知ってると思った。いくら体を重ねても、何も近づかなくて、哀しくて悲しくてたまらない気持ち。

 

「あなたが私との二年間を通じて何一つお変わりにならなかったのしたら、私たちの婚約に何一つ意味を見つけようとなさらなかったとしたら、それは、ただひたすら、あなたの前にいた私というものが無であったことを語っているのでありましょう。無でしかなかった私との間に、あなたが何の歴史もお持ちになれなかったのも、至極当然のことでありました。」

 

私の人生を、「無」のままで通り過ぎていく人の、なんと多いことか。そして、それは、時間にも、会話の量にも比例しない。