「ことば」にのせて伝えるということ

私は、「ことば」に興味がある。

 

中学生の頃、BUMP OF CHICKEN の藤原基央さんの書く歌詞が大好きで、私はこの意味がわかるから、日本に生まれてきてよかったんだ、って本気で思ってた。

このひとと、同じ言葉を私が使ってるなんてラッキーだって思ってた。

 

だって、日本語ってすごく難しいから。きっと他の国に生まれてたら学ぼうとすらしてなかったと思う。

私はラッキーだと思う。日本語が好きだから。

 

私は少し英語も話すけど、「ことば」としてはやっぱり日本語が好き。きっと自分が使いなれてる言葉だからだけど、すごく好き。

あいまいに濁すような言い回しも、場面によって使い方の変わるセリフも、無限に広がっている擬音の世界も、おまけみたいな語尾も。

 

持ち主の感覚次第でひらひらと変化することばたち。

受け手の感覚次第でくるくると踊ることばたち。

繊細で、厚かましい。

 

私たちは、ことばにならないこの世界をなんとかことばにしようと必死に生きている。

そして、一生懸命選んだことばで、ひとを喜ばせたり傷つけたりしている。

でも、大事なことはことばを通して上手くはひとに伝わらなくて、正面から分かりあうなんてことはもう幻想に近い。

 

無限の組み合わせから、今日、あなたに、伝えることば。それを選びとるのは、なんて難しいんだろう。

 

 

「溜め息のわけを聞いてみても自分のじゃないから解らない だからせめて知りたがる解らないくせに聞きたがる 

 あいつの痛みはあいつのもの 分けてもらう手段が解らない だけど力になりたがるあいつの痛みの痛みもあいつのもの」(藤原基央「真っ赤な空を見ただろうか」)