ひと一人の「過去」と「現在」について、たまに考える。
最近やたらと多い、時空を超えちゃう系の作品は置いておいて。
戸籍交換によって他人の過去を手に入れる、平野啓一郎の「ある男」とか、「過去のきみは、きみの所有物ではない」と言い切る、最果タヒの「10代に共感する奴はみんな嘘つき」とか。過去をどう捉えるかは、難しい。
「今の僕とは、今までの僕でできている。」
という言葉はきっと事実。事実なんだけれど。
そもそも、私の場合は、過去のことをそれほど覚えていない。それは、でも当たり前のことか。過去はあまりに膨大すぎて。全部覚えていると言い張るには生きてきた時間と同じだけの時間が必要だもんね。
昔、小さいころ、映画を見ていて、2時間でひとりの一生が語られて分かったような気にさせられている自分が嫌になって、ひとが、ひとをまるごと理解する事って可能なんだろうかって考えた。
幼い頭で考えて、早死にのひとの人生をすべてビデオに納めたら、全部理解できるんじゃないかって思った。そのひとの人生と同じだけの時間をかけて。
でもやっぱり、それでも無理なんだよね。思考回路とやらが違うんだろう。現実的には、映像だと視覚情報しか伝わってこないしね。
だとしたら、やっぱり過去の自分を知った気になっていることは傲慢なことなんだと思う。きっと、私たちは、自分の過去すらも一本の作品のようにしか捉えることができないんだろう。