「優しい」ということについて、もう少し考えてみる。
町屋良平の、「青が破れる」と「ぼくはきっとやさしい」を読んだ。
彼の作品には、「やさしい」に対する疑問がちりばめられてると思った。
引っかかったことばたち。
ー青が破れるー
「だれしも嘘はいやがるのに、ほんとうのことを伝えないことはやさしいことだおもっている。」
「おれは、一瞬で少年に戻って、傷つけたことを傷ついたことにすり替える速度だけすばやい子どものようになって、たちすくんでいた。」
「でもハルオさんがだれかの主観をどういうふうに祈っても、それは暴力になっちゃうすよ」
「他人に関心のあるひとのかなしみを、他人に関心のないひとのかなしみを」
ーぼくはきっとやさしいー
「やさしいきもちとやさしさは明確にちがう。」
「現実のぼくはじぶんの「真意」や「感覚」、「ほんとのきもち」こそがわからなかった。」
「友情とか親友ということばの定義が人生いちばんわからなくて、照雪の研ぎ澄まされた好意だけわかってしまった、あの日のこと。」
「わたしの個性としてわたしは、男女の男らしさ、女らしさの本能より、人間としてのやさしいを優先する。」
「モテる前にはやさしいといわれ、モテ終わると冷たいといわれ、そのどちらにも照雪の真実はない。」
やさしいが、何なのか、考えれば考えるほどわからないけど、あたりさわりのないことをやさしいと勘違いできるほど私たちはおめでたいし、良かれと思ってやさしくすることが暴力になり得るし、何よりも、ことばの定義が人生いちばんわからない。